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「君の名は」を見て泣く人と私の間には高い壁がある

 

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映画『君の名は。』公式サイト

 

 

アニメはあまり見ないから「君の名は」の印象は「また深夜アニメが映画館という大きな画面で上映されるんだ」くらいにしか思わなかった。

見終わると色と音が美しくて素直に楽しかった。

メジャーな映画には興味の薄い私が数年ぶりに流行と触れ合って、
人と遅れていた時差を少しずつ取り戻し、体が軽くなった。


また、売れているものがなぜ売れているのか考えるきっかけにもなった。



でも、その映画は泣けるとも言われてはいたけど私は少し違うと思っている。

涙と言えば、ここ3か月ほど映画でも本でも日常で泣いていない。
苦しい場面には直面したけど泣いてはいなかった。
むしろ悲哀に満ちているときには涙どころか目が乾いているものである。


図書館でたまたま見つけた「涙の理由」は茂木健一郎さんと作家の重松清さん。

この本の大きなテーマは「人はなぜ涙を流すのか」はとてもタイムリーだった。


2009年出版なのに表紙の対談風景が2017年の今話しても何も違和感がないのと、対談が続いていそうな趣きを感じたので思わずジャケ借り。

 

 

 

みんなに読まれるだけの文章を書くのはおもしろくない

茂木:現代社会は、ナンバーワンやツーばかりに目が行く。
実はさまざまな理由に感動して泣いている人が世の中にはいるけれど、
メディアは、最大公約数に焦点が合っている。

いわゆる「泣ける」小説だって、「あんなもの」と思っている人は
僕の周りでは多数派ですが、世間的には少数派で…。

 

 

私はブロガーだからキャラをどう切り取って何を発言しようか考えている。

ただ、世代ごとにある経験と悩みは似てくるし、やっぱり検索で読んでもらうには


「私は陶器が好きで新品のトイレや洗面所を眺めると落ち着くんですよぉ。
TOTOのカタログも持ってるんですぅ」

 


と書くよりは

 


今風に「会社員が合わないならさっさとやめて、仕事をつくるかリモートワークをしよう」の方が読まれるわけ。

日々、ジレンマがあるけど、さっさと仕事をつくろうって記事は書きたくない。
と、迷っている人は多いんじゃないんだろうか?

つーか、もう色んな人が書いてる。

おなかいっぱいだ。
誰かがすでに書いてくれてるんだから私は違うのかく。

 

 

ネットでキャラを立たせようとすると周りと似てくる?

書くからにはPVと見せ方が大事。
この2つを踏まえて自分のキャラをどう切り取って記事に起こすかが必要だ。

ネットの長所は他人は共感しないけど自分はすごく楽しい「個人的なツボ」を放出していい場所でもある。

そもそも、涙や笑いは共感を生まなくてもいいし、
「ここで泣くの?」って個人のツボであった方がおもしろい。

私は泣ける小説や映画で泣いた記憶が少ないし、むしろ個人的なツボに反応して隣の人が泣かないシーンでポロッと流してしまう。

 

 

 

書き手の役割は個人的な喜怒哀楽のツボを出すこと

 

ノウハウ記事のような役立つ文章や、個人のサガが出ていない文章ってもういらないんじゃないか。


ムリに変人になれとかスケベになれって意味じゃなくて

みなさんにも
「なんかしんないけどここで笑っちゃうんだよね」って笑いのツボや、
「理由はないけどこれ癖になるんだよね」ってあるでしょ?


私はあなたが感じた言いようもない感覚を言葉にしてほしい。
もっと個人のサガをほじくりだすようなどうしようもない文章が読みたいんだ。


オリジナリティって当たり前だけど「自分の感情を通した笑いや涙を言葉にしたもの」

 

だから当たり障りのない文に出くわすと、


おうおう、あんたの文、キレイすぎじゃないのか?

どうしようもない部分はどこで発散してるんだ?
それじゃ当たり前ポエムと同じだぞ?と突っ込みたくなる。

 

せっかくネットがあるんだから個人的なツボの描写を言葉にできるようにすると、
人間臭いユーモアあふれる表現になるでしょう。


例えば私は戦場のピアニストで主人公が誰もいない部屋でグランドピアノを狂うように弾いていたシーンで何度か泣いている。
悲哀なツボを刺激するのだ。

ネットで個人的なツボを書く場合、
多くの人が共感する文章を書けるスキルも必要だけど

「他者が理解と共感ができないかもしれないささいな記憶」をどうやって文字に起こすか書くかが肝だ。


みなさんどうだろう、私の考えは。 

 

  

 

この涙は自分だけの涙か?と問いかける


少し長いけど本文中でとくに共感した文を引用しよう。

茂木:涙を自分のものにすることは、なかなか難しい。
映画を見て流す涙は、はたして自分の涙になっているのかどうか。

重松:いま僕も同じことを言おうと思っていた。
いわゆる百万人が涙した「小説や映画で流れる涙」と、
もっと個性的な「体験や個人の歴史から流れる涙」が、
同じなのかということ、やはり違う気がする。

 

茂木:ということは、昨年流行りの「百万人が流す」涙は、自分の
ものになっていない涙なんだね。他人の涙。借り物の涙というか。

重松:もらい泣きは、自分の所有物でない涙の典型のような
気がするのね。たとえば、百万人が涙した話、恋人が癌で
死んじゃう話とか、白血病で死んじゃうときの涙は、感動じゃなくて
道場なのかもしれない。「かわいそう」という。

茂木:僕は、自分が所有できる涙を生涯に何度流せるのだろうか。
重松さんは、本当に自分のものになっている涙を流したことはありますか? 

 ※昨年流行りの例はセカチューを出しています。

 

 

私はこの文から個人が鑑賞のプロであるべきだと痛感した。

鑑賞のプロは評論家だけじゃなくて私たちが個別の体験を増やすためにも
豊かな審美眼を手に入れるべき。

 

感情ってもっと個別だからこそ、借り物の言葉で泣くと涙を鍛えるネタはどんどん減って、個人の笑いと涙のツボが消えてしまう。

大学生の知り合いの話を聞いても授業そっちのけでサークル、バイトだし、

新社会人の様子を見ても歓迎会、研修、社会ってこんなに厳しいって話になるし。

20代後半だって結婚とか出世とか。

 

もう出てくる話は全部一緒。
私はこの現象を「共通認識多すぎるぞ問題」と呼んでいる。

よく日本の教育問題を語るときに「自分で考えて決める子を育てる」っていうけど、

私たち大人も節目節目で似たような経験をしている人が多いから、
どんなに感情教育しても個別の体験を大事にするマインドがなければ意味ないのよ。



 

 

最後に

私が喜怒哀楽を表現する時間が格段に短くなったと思ったので書いた。

ツイッターに流れるGIFを見たり今だけなら意味の分かる画像を
小刻みにたくさん見ていると、感情を出し切れないで喉元で詰まっていく。

腕から塩を振るシュールな画像で笑った後に、紛争で血だらけの少女の画像が
出てきたりとSNSは陰と陽のコントラストが非常に激しい。

だから感情を全力で出し切らないまま憤りを感じていた。

映画を例に出して書いたけど、それなりに時間のかかる趣味やコンテンツは
喜怒哀楽までの沸点がゆるやかに上がっていって心地がいい。

 

 

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